2年ほど前に下記の記事を書いた。
そこで書いた通り、私は組織は性善説で運用されるのがベストだと思っている。
性善説の良さ
最低限のルールがあれば十分に成果が上がるし、余計なマネジメントは必要ないし、そういう規制やマネジメントにかけている労力をすべて目標達成のために注げるからだ。
定期的に「この学校は自主性を重んじています。その結果偏差値●●という超進学校として…」みたいな話があったり、ラグビーで有名な東福岡高校なんかも自主性を重んじる部活動の方針であるという話が数年前にテレビで取り上げられていたように思う。
一定の成果がそういった環境で挙げられてくるのは、性善説で組織が運用されているからだろう。
緊急事態宣言の重みがなくなってきた
さて、3回目の緊急事態宣言が発出、そして延長されるという話が出てきた。
それでも人では(思っていたよりは)減らない、だから延長だ、ということらしい。
緊急事態宣言の是非はここでは論じないし、医療従事者の方には頭が下がるばかりである。
一方で、効果がなかなか出ない背景には上記の「性善説」が崩れてきたからかなとみている。
2020年4月7日に7都府県を対象とした1度目の緊急事態宣言が発令されたとき、恐ろしいほどの自粛効果があった。個人的には若干怖いと思ったくらいだ。それほどの統制力と実行力があった。
それはなぜだろうか。
もちろん、コロナウイルスへの未知の恐怖感が先頭にあっただろうが、それ以上に「この緊急事態さえ凌げば、山は越えられるに違いない」という期待感、ひいては「政府や知事の言うとおりにすれば(ある程度は)収まるだろう」という「性善説」な空気があったのではないかと思う。
しかし、何度も発出される中、そして十分な補償がなされない、あるいは若者には感染しづらい(少なくとも従来においては)、といったことを踏まえたときに、
「政府や知事の言うことがすべて『善』ではないのでは?」という考え方が少しずつ芽生えたのではなかろうか。
性善説の破綻と性善説なお願いの矛盾
政府と国民だって、知事とその都道府県に住む人々だって、1つの共同体という意味では組織と同じだ。
それが「性善説」で成り立たなくなってきたのだ。
一方で、発信をする側である政府や知事からの発信は常に「お願い」でしかなく、この「お願い」はつまりそれを聞く者たちに「性善説」を期待しているのだ。
この「性善説」が成り立たなくなってきている状況、に対して
「性善説」を基にした「お願い」を続けているわけで、
そりゃなかなか上手くいかんわなと思うのである。
ここで、「いや昨年はこれで聞いてくれてたじゃないか」というのは、
冷え切った夫婦関係の中で「若いころはこうだったじゃないか」というのと同じで、
恐ろしいほど響かないだろう。
極端な話、
「どうしてもオリンピックがやりたいんです!スポーツで皆さんを元気にするために!感染者が1日○○人以下になれば開催できるんです!なんとか協力お願いします!」くらい言えば変わる人は変わるんじゃないか。
あるいは
「これまでの休業補償の10倍の予算を取るので、なんとかこらえてください!」でもいいだろう。
もちろん、その予算は未来にかけて僕たち自身が負担をしていくわけだが、そういうことを含めて、発信するとか、そういうことをしないと変わらないんじゃないか。
おまけ~割りを食うのは子どもたち~
これは(言葉はすごく悪いが)マネジメントの反面教師としてはすごくいい題材で、イケてない上司ってこういう人だよね、って気もしていて、
僕自身も人をマネジメントする立場である以上、我がふり直せで取り組めることもあるなあと思う日ごろであるのと同時に、
一番理不尽にしわ寄せを食らっているのは学生や子供たちなのは間違いなくて、僕自身も含めて不甲斐ない大人たちでごめんよと思う日々だ。
彼らにとっての1年は僕たち大人の1年とは全く違う。
去年の僕も来年の僕も今の時期は同じようにこの時期用の仕事をしているわけだが、小学生や中学生といった子たちはこの1年で本来は色んな機会を得て成長するはずなのだ。
僕自身が「ゆとり世代」と言われて生きてきたように、まさか彼らが「コロナ世代」なんて言われる未来が来てしまわないだろうかと恐ろしくもある。
元の日常に、と0⇔100で語ろうとは思わない。30でも50でもいいから子どもたちの日常が戻ることを祈ってやまない。