色黒大阪人が気ままにつぶやくブログ

色黒で大阪人で人事(過去形)な僕がなんかつぶやきます。

全国大会中止議論が本質をついていないなと感じるGW

最近話題の全国大会中止論

全国大会を中止へ、という議論が最近少年スポーツ界隈で取りざたされている。

news.yahoo.co.jp

なぜだろう?と色々調べているとどうやらこういうことらしい。

 

勝利至上主義に偏って、いきすぎた指導が横行している

 

これを文面通りとるなら、

原因:勝たせたい気持ちがいきすぎる。

結果:いきすぎた指導が横行する。

ということになる。

 

安直すぎないか…?という疑問はあるけれど、いったんそれを受け止めたとして、さらに考えるなら、

なぜ勝たせたいと大人は思うのか…?

プロになる

オリンピアンになる

立派な大人になる

自信を持たせたい

良い経験を積んでほしい。

とかだろうか?(勝って大人が威張りたいとかもあるか…?)

それが行きすぎた指導になる、と。

 

やっぱり安直だなあと感じてしまう。

 

大前提として、先にあげた【結果】の

【いきすぎた指導が横行する】

これは悪だろう。

「いきすぎた」の定義に差はあれど、それに対して「是正すべき」と感じるのは私も同様だ。

あとはそれの

・割合(頻度)

・質(深刻さ)

・本質的な原因

が大切だ。

現場で感じること

ここからは感覚論も多くなるが、数年間少年野球に監督としてかかわってきて、多くのチームを見てきて、この「割合」や「深刻さ」はごく一部、数%の世界じゃないかと思っている。

あくまで相手チームのことはその試合中でしか見ないのでなんともだが、

このご時世暴力の現場を見たことは皆無だし、罵声を浴びせている指導者は広い意味の罵声を含めてみても、多く見積もって5%くらいかなと感じる。

 

私たちの所属するスポーツ少年団東京オリンピック(1964)に向けた「オリンピック青少年運動」の一環としてスタートし、創設から約60年。

うちのチームもそうだが、創設メンバーの方々は現場を引退し、2世代3世代の世代交代が進んだのが今で、いわゆる「昭和的な指導」というか

「水飲むな」

「死ぬ気で」

といった指導を(少なくとも指導者側で)行ってきた人は絶対的に少なくなってきているのではないだろうか。

チームから個人に考え方は変わってきている?

また、仮にそういう指導があったとしても、それはチーム単位ではなく個人単位で起こっているケースが多いのではないかと仮説を持っている。

チームとして(極端に言うと)

「勝ちたいんで、しばきまわしながら鍛えまっせ」

というチームはもはや今のご時世、

「あ、別に他の選択肢(チーム・スポーツ)あるんで大丈夫です」

といわれてしまう時代だ。

一昔前と違って、近隣のチームの情報もWebサイト等で調べられるし、ましてや人の「コメント」の力は明らかに強くなっている。

 

一方で、「よその子」の教育に二の足を踏む今のご時世は、

逆に言えば「うちにはうちのやり方がありますから」という理由で、「自分の子どもに厳しく指導する」ケースがあるときに周囲がそれを止める術が少ない。

そういう意味でチームでそのような「いきすぎた」指導が行われていなくても、「あー、特定の子に言うてるなあ。親父さんかなあ。」と感じることは時々ある。

 

つまり何が言いたいかというと、現場レベルでは一部の超例外的ケースを除いて、

「いきすぎた」指導は逓減してきており、一方で、

「個人レベル」での「いきすぎた」指導はちょこちょこあるかもしれない、という感じだ。

 

したがって、冒頭の話に戻るが、

「いきすぎた」指導が結果だったとしたときに、その原因は「全国大会を目指しているから」というチームスポーツの問題ではなく、より「個人」の問題が根幹にあるのではないか?と思っている。

子どもから選択肢を奪わず与えていきたい

僕は勝利至上主義に賛成でも反対でもない。

「勝たなきゃ意味がない」という「Must」な思考には反対だが、

「勝ってこそ見えるより広い世界がある」という「Better」な思考には賛成だからだ。

前者は「勝つ」こと以外の選択肢を否定していて、

後者は「勝つ」こと以外の選択肢を肯定している。

 

子どもたちには「選択肢」を提示していくのが大人の責任だと思っている。

子どもに応じてその難易度や幅はあれど、

「こういうパターンもあるよ」

「あんなやり方もあるよね」

こういうのが大人として子どもに接する1つの責任じゃないかと思っている。

 

そう考えたとき、「全国大会を禁止します」ということは「1つの選択肢を子どもから奪う」ことになっているとしか感じないのだ。