色黒大阪人が気ままにつぶやくブログ

色黒で大阪人で人事(過去形)な僕がなんかつぶやきます。

やっぱり組織って性善説であるべきだ

組織とかチームとかマネジメントとかいろんなことを考える時間が増えてきました。

現在のみならず過去のものを振り返ってみても、僕にとって居心地のいい組織とは性善説で動ける組織だったなと感じます。

組織が性善説で動けるようになる、その理由をいくつかあげると、

  1. この人は優秀だからきっとやってくれるだろうという期待感があること
  2. 得意分野におけるこの人は(いい意味で)手出しが出来ないくらい優秀であるということ
  3. この組織の中で自分が「この領域といったら自分だ」と自信をもって言えるものがあること
  4. 関心は持つけど干渉はしない組織風土が形成されていること

このあたりに集約されてきます。

こうなってくるといわゆるマネージャーのような人って不要になってくるんですよね。

なぜならその組織の全員が

「自分がやるべきこと」

「他のメンバーがやるべきこと」

を自ずと理解が出来て、かつそれを自信をもって遂行できるからです。

そうなってくると自分は基本的に目の前の仕事に集中できるようになります。

ここで大事なのが4つ目に挙げた「関心は持つけど干渉はしない」というもので、「眼の前の仕事に集中」する一方で他人の仕事にも「関心は持っている」んですよね。

 

ある程度自立して行動できる人たちって、「自分の仕事が自分だけでは完結しない」っていう目線をしっかり持っている人が多い印象で、

自分の上流ないしは下流でどういう仕事が行われているのか、

をいわば「横目」で見ながら、自分に来るであろうタスクを受け入れる準備をしたり、あるいは相手に受け渡しやすい形にしてタスクを渡したり、みたいなことが出来るんですよね。

これって仕事だと出来る人少ないんですけど、難易度自体はそんなに高いものではないと思います。

例えば、サッカーで自分のところにボールが来てから「初めてボールを見る」なんてことないですよね。周りがどういうポジションにいて、相手がどこにいるのか、そういう事も含めて見ていると思います。

自分を取り巻く環境を冷静に見て、それに応じて少しずつやるべきことを変えていく。単純に「パスを受けて、パスを出す」と考えても、作業的にやっているのか、周りをみてやっているのかでいうと普通は後者なのではないでしょうか。

それが仕事になるとできる人が少なくなるのは結構不思議ですよね。

 

話を本題に戻すと、組織が性善説で動くのであれば、細かいルールを決める必要なんてないんですよね。「なんとなくいい感じにやれるっしょ」でイケちゃうので。

逆にいえばルールよりも「目的」とか「どうなればそれが達成と言えるのか」とか「その先に何を見据えるのか」みたいなそういうベクトルのアジャストに時間を掛ける必要はありますね。

旗を立てて、それに向かって各々の最大戦力をつぎ込んで向かっていく、そういう組織づくりをしていきたいですよね。

 

でも多くの組織は性善説では回らないんですよね。

組織が拡大すればするほど、質より量みたいな議論になってきて、これまでみたいに「そもそもデキるやつ」を採用できなくなってきたり、そこに妥協が生まれたりするものです。

変な話、入ってくる人の質が下がっているのだから「目的の共有」という性善説的チームビルディングに最も必要なことを、より時間を掛けて取り組めばそれでもまだチームは保たれるのかも知れません。

が、たいていはそうはならず、とにかく目の前をさばいてくれる人、というのを欲してしまったりします。

だって、「目的」とかに拘る人って思考が深い分扱いづらいから。

そして「扱いづらいな」と思うと「扱いやすい人」つまりは「自分よりデキない人」を採用するようになります。(ここでの「デキる」「デキない」は思考の深浅だと思ってください)

そうするとより人材の質は下がってくる。

人材の質が下がってくるから目的の共有だけではベクトルが合わなくなるので、ここでルールを増やしていかないといけない。つまり、性悪説への転換が起こるわけです。

 

性善説で仕事ができる、それ自体を否定したり嫌がったりする人は少ないのではないでしょうか。

自分の強みを発揮できて、かつ、自分の行動は制限されず、かつ、周りに別領域のスペシャリティをもつ仲間がいる。

超いい環境ですよね。

マネジメントをする必要もされる必要もない。

採用の質が下がれば「性悪説」に陥るのであれば、採用の質を下げずに「性善説」を保てればいいだけの話だと思っています。

つまり、「この人なら超自由に仕事されても問題ないか」くらい思える人を採用すればいいんじゃないかなと。

そう思える人って間違いなくなにかに特化して強みがあったり、他の人とは飛び抜けて違うところがあるはずで、そういう人を普通のルールや規則の運用による「性悪説的マネジメント」すること自体がナンセンスなんですよね。

 

そういう意味でやっぱり組織って性善説であるべきだよね、と強く思ったのでした。