2021年の箱根駅伝、駒澤大学の逆転総合優勝で幕を下ろしました。
2位の創価大学は前評判はそこまで高くなかったかのように思いましたが、最後まで素晴らしい走りを見せてくれましたし、王者青学も苦戦しつつも復路はさすがの走りでした。
ちなみに僕は、9区終わって3分差というところで見るのをやめてしまっていて、肝心の逆転シーンは見ていません(おい)
さて、今回の箱根駅伝のキャッチコピー
「応援したいから、応援に行かない」
は言うまでもなくコロナ禍で実施するにあたって主催者である関東学生陸上競技連盟さん、共催の読売新聞社さんをはじめとする関係者の方々が頭を悩ませて、出した1つの応援様式でしょう。
その一方で、その声が響かず(?)沿道で応援する方々もそこそこの人数見受けられ、ネットニュースになったりもしていて、また僕の友人にも「それってどうなの?」とSNS等で投げかけている方もいて、僕も少しは触れておこうと思ったわけです。(2021年はそれなりのペースで記事書くって言ったし)
結論から言うと
結論から言ってしまえば、「そりゃ沿道に来た方は何のリスクもないもんなあ」という一言に尽きます。
もちろん、感染症にかかるリスクはありますが、それで責められるリスクは個人に対しては皆無。
もしかかったとしても、それは「観戦していた人のうちの1人」程度でしかないですしね。
それ以外に金銭的なリスクを負っているわけでもないですし、そういう意味では、なにかがあったときの「リスク」は沿道に来ていた人にはほぼないのではと。
個人の感覚と集団の感覚
結局この「沿道に来た人は個人」という状況は、それが集まることで「観衆」という集団になり、そうなると結局n分の1の感覚しか(特に負の感覚においては)持たないんだろうなあと。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の理論ですよね。
この個人の感覚と集団の感覚は、何もこういう件が特別なわけではなくて、会社や学校など何らかのコミュニティに属している以上は誰しもが味わっているはずで、個人としての自分とn分の1としての群像の中の自分と、それを都合よく解釈しすぎていないか、というのは常に自問しないといけないなあと。
ちょっと休憩~ぶっちゃけた個人の感覚~
僕個人の感覚だけでいえば、「地元の人」が応援するくらいはいいのかなというのが正直なところです。自分の地元の近くを通るから、少し様子を見てみようかな、くらいのイメージ。
わざわざ箱根に移動するとかであれば別ですが。
そこに個人としていられる理由
ただ、その個人としての感覚は、その場所・そのコミュニティがどうやって作られているのか、を配慮する必要があります。
今回でいえば、「リスクを負っている」のは主催者である関東学生陸上競技連盟さん、共催の読売新聞社さんをはじめとする関係者の方々です。
その彼らが出したメッセージが「応援したいから、応援に行かない」というものであるというバックグラウンドがあったうえでの、「個人の感覚」という点を忘れてはならないだろうと。
そして、「リスクを負っている」からこそ、同じ大学の同じ駅伝部のメンバーであっても、寮から応援する姿はテレビに映っていたはず。
感染のリスクは、そこにいた沿道の人だろうと、駅伝部のメンバーだろうと(特別なことをしない限りは)ほぼ同じはずで、その中で「リスクを負っていない」人は沿道に来てしまい、「リスクを負っている」彼らは沿道には来ない判断をする、という違いが出たんだろうなと。
リスクを負った人たちにマイナスがないことを
「リスクを負っている」主催者の方々は、そのリスクを考慮してある程度の行動をされていたと思いますが、それを上回る「リスクを負っていない」人々の行動によって、
「箱根駅伝やるべきじゃなかったんじゃないか」という論調にされてしまうのは避けたいことです。
公共の場を借りてなんらかの催しをやる以上、一定のルールや制約を引いたとして(今回でいえば、沿道での応援を控えてくださいと呼びかけたとして)、それがどう運用されるかは結局「性善説」で考えるしかないわけです。
例えばそれに従わない人がいたからといって、今回の沿道の観客を、関東学生陸上競技連盟の学生さんたちがなんらかの方法で排除を出来るのか、と言われると、公道である以上それは非現実的でしょう。
必死に呼びかけて、「善」の部分を期待するしかない。
これを「性悪説」的にとらえると、自動車事故の危険があるから車禁止しますか、と同じで、あらゆる催しやめといたほうがいいんじゃないですか、だって「悪」な人いるかもしれないし、になってしまいます。
それはもはや誰も望んでいないでしょう。
まとめ
今回の箱根駅伝だけではなく、あらゆることを行うときに、大小はあれど色んなリスクを乗り越えて行われているわけです。
それは今回でいえば感染症だったり、それに伴う風評被害だったり、別のケースなら金銭的コストだったり、時間だったりと。
もちろん、そこに携わる以上、自分自身(今回でいえば観客自身)も何らかのリスクを払っているわけですが、それ以外の人たち(今回でいえば主催者など)がどういうリスクを負っているのか、ということは常に頭の片隅には置いておきたいものです。
普段の仕事やプライベートでもそう。
「個人」としての生き方や価値観がフューチャーされるからこそ、そのために自分も含めた色んな人たちの様々なリスクと上手くバランスをとっていくこと、その上に多くの事象が成り立つということを改めて意識したいと思いました。