僕は結構ズバズバいうキャラクターだと思う。
良いことも悪いこともできるだけ伝えるようにしている。
物心ついたころにはそういう人だったように思うし、そのせいで子どものころから色んなトラブルを巻き起こしてきたし、巻き込まれることも多かったと自覚している。
それは学生になっても、社会人になっても同じで、多くの敵を作りつつ生きてきたんだろうなと思ったりしている今日この頃。
それが最近、そういう物言いに対して、割と理解されるようなことが増えてきた。
僕自身はそこまで大きく変わっていないし、別に周りに遠慮しているわけでもないが、なんとなく理解者が増えている感じはある。
上司と話をする中で少し見えてきたことがあり、せっかくなのでそれを何となく言語化しておこうと思う。
そもそもズバズバ物を言うって何なのだろうか、という話から因数分解の必要がある。
ここは要するに「自分が感じたことをそのまま言葉にする」ということじゃないかと思う。
幸か不幸か、「言葉にする」というのは得意なので、まさに「自分が感じたこと」と「言葉にして出ること」がイコールになるのが僕だ。
「この人が嫌いだ」と思えば、「僕は君のことが嫌いである」と言えてしまう人だ。
今、字に起こしてみるとつくづくヤバイ奴だなと思うが、事実なので仕方がない。
そりゃ揉める。過去の人たち、すいませんと今なら言える。
言葉を変えるなら「遠慮のない」物言いなんだろうな僕は。
そこは変わっていない訳である。今も昔も。
さて、ここで上司との話になるわけだが、上司は言うのだ。
「効率主義なお前が、なぜ自分が感じたことをそのまま言葉にするのか」と。
おお。確かにそれは面白い。
僕は自他ともに認める効率主義、時短主義、めんどくさがりetcだ。
ただ、僕は今やマネージャーであって人の上に立って組織を率いないといけない立場だ。僕の主義主張だけで成り立つ仕事ではない。
それは明らかである。
「そりゃ、僕がやった方が早いと思うことも多いですが、僕は人に手を動かしてもらうことが仕事ですからね」(話は飛ぶが少年野球の監督もまさにこれだなと今思う)
上司は返してくる。
「なるほど。つまり、チームの全体最適のために今は相手に指摘をしているわけだな。」
そこまでの大義名分は感じていなかった気もするが、そうらしい。
上司は続ける。
「じゃあ、チームを持つ前はどうだったんだろうか?その時は何のために指摘をしていたんだろうか?」
なるほど。と思った。確かにそれは大きな変化だった。
これまでのトラブルを起こしがちな僕自身は、「自分が感じたことをそのまま言葉にする」のはまさに「自己表現」でしかなかったのかもしれんなと。
それが今の「自分が感じたことをそのまま言葉にする」は「組織課題を明確にする」という理屈で成り立っている。
主語が「I」から「We」になった感覚だろうか。もしかしたら「I」から「You」かもしれないが、なんにせよ主語が「I」ではない「遠慮のない物言い」になっている気はする。
最後に最も腹落ちする言葉をもらった。
「今のお前の言葉に遠慮はないけど、配慮はある。」
なるほどなあと思った。
遠慮するかどうかの判断基準はすべて自分で完結する。
それが配慮となると相手の状況を理解したうえでどうするかを選択する。
昔の自分に足りなかったのは「配慮」だといわれると納得感も大きかった。
今の世の中、個性を尊重してくれる。
むしろ自分の意見を持てと言われることも多く、それをかさにかけて相手を傷つけてしまう僕のような人もいるだろうが、
「遠慮」はしないが、「配慮」はする、というのを出来るようになれば割りと周りは大きく変わるよ、という気づきをここにシェアしておきたい。
(ま、僕は今日気づいたんですけどね)