後輩ちゃんのお悩み相談を受けた。
彼女は得意なことがあまりないという。数少ない得意なこと(彼女は「できること」と言っていたが)も周りのプラスになっているかわからないのだという。
不謹慎ながら面白いと思ってしまった。
僕から見れば、その後輩の持つ知識だったり人柄だったりは十分すごいものだと思うし、すでに「得意」の「相対」と「絶対」みたいなものもわかっているのではと思ったからだ。
若干昔書いた記事とも重ならないでもないと思うので、「個性論」の記事を貼っておく。(もう2年半も前のことらしい)
まず「得意」を分類する
さて、僕は「得意」には「私的な得意」と「公的な得意」があって、「公的な得意」の中には「ミクロな公における得意」と「マクロな公における得意」があると思っている。
「私的な得意」とは
まず「私的な得意」だが、自分ができるあらゆることの中で「得意」と言えるものである。学生時代に戻るなら、国語・数学・英語・理科・社会の中でどれが一番「でき」ますか?というやつだ。
これは自分の中で、でいい。
「数学」と答えたとするならば、別に自分が50点しか取れず、周りが80点取っていようとも、「得意」と言っていい。ほかの4教科よりも「自分の中」で「得意」なのだから。
「公的な得意」とは
次に「公的な得意」は、「相対的に見たとき得意」なものを指す。先の数学の例ならば、この「公的な得意」においては「得意」とは言えなくなる。
「周り」と比較してほかの人より出来ているかどうか、が「得意」の判断基準となってくる。
「公的」の「ミクロ」と「マクロ」
そしてこの「周り」というのが「ミクロ」か「マクロ」かで分けておかないといけない。
勉強でいうなら、進学校で「公的な不得意(いわば劣等生)」であってもほかの学校に行けば「公的な得意(優等生)」に分類されることはよくある。
そしてこの「ミクロ」と「マクロ」が必要十分で見たときにどういう関係性なのかも見極めておかないといけない。
つまり、今進学校(平均より上の集合体)にいるのだとすれば、そこでの「公的な得意」については自動的に「マクロ」においても「公的な得意」といえるだろう。
しかし、今平均より下の集合体にいるのであれば、そこでの「公的な得意」は「マクロにおける公的な得意」とは言えない。
極論、100人中下位10人だけ抜き取って、その10人の中で「上位」だからといって、100人の中では「上位」とは言えないだろう。それと同じだ。
「得意」を見極める
自分の「得意」を見極めるためには
- 自分というものの「得意」
- 今いる組織(=ミクロな公的環境)で見たときの「得意」
- 同じ属性を持つ集合体(=マクロな公共環境)で見たときの「得意」
この3つを見ないといけない。
まずは自分の「得意」を見つけることだ。特に具体的な得意からでもいいと思う。
「数学」という単位だけではなく、「数学のこの分野が得意だ」でもいいだろう。
「自分の中での得意」はあくまで、自分ができることの中において「相対的」に評価してほしい。そうすれば、この時点で「得意なことがない」なんてことにはならないからだ。
ちなみに「得意」を見つけるときには一通り「得意ではないこと」もさらっておくといい。自分にとって「得意ではない」けれど、ミクロな公的環境で見れば「得意」なこともあるからだ。
そのあとにミクロな公的環境をみる。つまり「公的な得意」を見るのだ。
自分のことをわかっていればより周りのことも見えるようになるだろう。
自分の「得意」が「公的な得意」と一緒であれば非常にいきいきとして実力を発揮できるはずだ。
一緒でなければ、周りの環境の中から求められているものを探してもいいだろう。
ここまで書きながら自分でも整理されてきたのだが、
- 自分というものの「得意」
- 今いる組織(=ミクロな公的環境)で見たときの「得意」
- 同じ属性を持つ集合体(=マクロな公共環境)で見たときの「得意」
この3つはつまり
- プライド
- 評価/称賛
- キャリア
と言い換えるとわかりやすいのではないか。
- 自分がプライドを持って取り組めるもの
- 周りから求められ称賛されるもの
- 世間から求められるマクロなスキル
のようなイメージだ。
自分の「得意」でプライドをもって仕事をしていても、「公的な得意」でなければ周りから求められているものとは異なるので評価や称賛にはつながらない。
一方で、周りから求められるものばかりこなして、マクロな視野を忘れては「キャリア」としては使い物にならないかもしれない。
自分の「得意」や取り組んでいる目の前のことが、この3つにおいてどういう○×を描くのか考えてみる方が本質的に思えてきた。
まとめ
仕事にせよ勉強にせよ、何か取り組むにおいては、「自分」と「周り」双方の視点が求められる。
そしてそれは「絶対的」なことでも「相対的」なことでもある。
こういう目線の上げ下げというか、柔軟な変更を必要に応じて出来るようになっていると人間として強いんじゃないかなと思う。
そうすれば「得意なことがない」なんて卑屈になることも、「俺すげえええ」って過度に天狗になることもなく、ただ現状と現実をありのままに見て、必要な時に必要な方向に必要な分の力を発揮することができるのではないか、と思うのだ。
※余談~せっかくなので自分でやってみる~
後輩ちゃんのスキルを例にあげるのは、僕に専門性がないのとプライバシーな問題で避けるとして、僕の今の仕事を「データ」「仕組みづくり」「IT周り」に分類して上に当てはめると
データ
- プライド→△
- 評価/称賛→△
- キャリア→△
仕組みづくり
- プライド→○
- 評価/称賛→○
- キャリア→○
IT周り
- プライド→×
- 評価/称賛→○
- キャリア→×
こういう感じになる。
今割と重宝してもらっているのは「仕組みづくり」と「IT周り」だが、世間的に見たら僕の「IT」の知識なんてミジンコみたいなものだ。
本物のエンジニアが1時間でできることを1日かけている自信がある。が、その僕が1日かかることがこれまでの社内だと1週間かかっていたりするので、とても重宝してもらっている。うれしい。
ただ冷静になったときにこの「重宝さ」で世間に出てメシは食えない。そして何より僕自身そんなにそこに興味がない←あ
データ周りはそこそこ楽しくやっているが、僕より出来る人がいる。もちろんその人からいろいろ吸収していくけれども、お互いにメインの業務がそこではないので、この中で長い目で見たときに何かを築くのは難しいだろうな。
必然的に「仕組みづくり」に落ち着く。
過去の組織でもやってきたことで、その会社でも今の会社でも割とニーズは高いし、興味もある。いろんな勉強会にいっても、「あれ俺割とできる側ちゃう?」と思える感じもある。
ということでその辺に生きがいを感じつつ、でも社内で求められる「IT周り」や「データ処理」のところをしっかりやっていこう、というのが僕の見解。