色黒大阪人が気ままにつぶやくブログ

色黒で大阪人で人事(過去形)な僕がなんかつぶやきます。

「客観的」になんてなれないんだから、しっかり「主観的」にものを言うべし

ここ数週間、公私ともにバタバタしており、ブログの更新が滞っていました。

厳密には下書きにはかなりの記事があるんですが、いまいち納得できていなかったり、書きなぐり→整形、という工程の「整形」の部分に時間を使えていなかったり、で非公開なまま数週間来ました(言い訳)

自己満足として始めたブログですが、久しぶりに呑む友人に「見てるよ」と言ってもらえたり、Facebookで「ブログ更新まだ?」とやや急かされ(?)たりして、「お、なんか意外に反響あるやん」と久々の更新に踏み切りました。

で、この記事ですが、本日僕の尊敬する友人が似たような話をライトめにFacebookに投稿していて、このテーマは僕自身かなり考えるところなので、勢いで書こうと決めたのでした。

客観的に決めたがるのってなんで?

僕の純粋な疑問です。

近々キャリアイベントをするのですが、そこの事前アンケートにも「客観的に就活をうまくやりたい」みたいなコメントがありましたし・・・。

自分の何かを決めるとき、上で言えば就職でありキャリアですが、なぜ客観的である必要があるんでしょう?

自分の影響下にあるものに対して、なぜ主観的に決めないのか?

自分で責任取りたくないから?多数派にいればそれ以上考えなくて済むから?客観的に見て正しければ、いずれ間違っても言い訳効くから?

多数派だからって正しいわけじゃない

ふと考えたんですよ。

確かに小学校中学校と、「みんながこうだから」で意思決定「させられて」きたな、って。自分の意思も弱かったし。

日本って画一的にしたがるところあるしね。海外?行ったことないですけど。

実際一人違うことをやる、とか、明らかにおかしな伝統(歴史的多数派)に異を唱えてつぶされてきたことって一度や二度じゃないですよね。僕だけじゃなくて。みんな。

そうやっているうちに、「自分のこと」も「自分で決めない」ようになってしまうのかもしれません。

でも、多数派だからって、正しいわけじゃない。ただ、それを「正しいと思う」人が多いだけ。「正しさ」なんて物の見方によって変わるもの。

天動説から地動説だってそうだった。当時にタイムスリップしたら、地動説唱えてる人なんてクレイジーだったかもしれないけど、結果彼らは正しかった。

彼らは周りから好奇な目で見られたかもしれないけど、自分の意見を自分の正義や信念のもとで貫いて、「正しさ」を変えたんですよね、きっと。

そこにはもちろん、「客観的」な根拠はあったはず。だけど、彼らの主張は「客観的」ではなく、根拠をもとにした絶対的「主観」だったと思うんですね。

「限定合理性」という考え方

少し前に読んだ本の中に「限定合理性」という考え方があり、

「あ~、これやな」とすごく腹落ちしたので少し触れておきます。

簡単に言えば、

いかに合理的にあろうとしても、そもそも認識できる合理性なんて限られているんだから、完全に合理的になんてなれないよ

という考え方(雑すぎて厳密には違うよ、とかであればすいません)です。

もともとは経済学の言葉だそうですね。

ここでは合理性ですが、客観性も同じだと思います。

就活にしろ、キャリアにしろ、スポーツにしろ、遊びにしろ、恋愛にしろ、

いかに客観的に情報を集めて判断しようと思っても、

「情報の集め方」に自分でなんらかのバイアスをかけているし、

「落ちている情報自体」も、流した人がなんらかの意図を持っているし、

「情報をもとに何かを決めるとき」もその人自身のバイアスがかかる。

ってことはいかに「客観的」になることを心掛けたところで限界があるわけですよね。

そういう意味ではやはり、客観的になんてなれないよ、という結論に至りますよね。

意見を聞いたうえで「主観的」に意思決定すべし

客観的になれないから、人の意見なんて聞かなくていい、わけではもちろん無くて、

先人の知恵は可能な限り活用すべきです。

そこに流される必要がないだけ。

本で偉い人が言っていること、会社や学校の先輩のいうこと、親や兄弟が言うこと、そして自分の意思、どれも大事。

あとはそのうえで、自分がどう「意思決定」するか、ただそれだけ。

もちろん失敗するかもしれません。

でもそれでいい。

そうしたら、「あ、あの人の言ってたこと当たった、今度はもう少し参考にしてみよう」と思えばいいだけ。

「今回はどういう理由で失敗したんだろう」と少し振り返ればいいだけ。

幸い、日本という国では1度や2度失敗しただけじゃそうそう生きていけなくなりません。

なんとかやっていけます。

そういう危険性よりも、自分で考えることを放棄して「死んだように生きていく」方がはるかに怖い。

そしてそういう生き方をするのがはるかに簡単なのもこの国の特徴なのかも知れないな、とこの頃思ったりします。

まとめ

結局、どこかで自分で決めるタイミングを作らないといけないです。

自分の意見であり、自分の人生だから。

そこで批判されたり、非難されることもあると思います。

その時は素直に相手の意見を聞けばいいだけです。

その上で、やはり違うと思えば意見を戦わせればいいし、その通りだと思えば吸収して次につなげればいい。

自分の意見をしっかり言わないと、誰の意見も新たに聞けなくなるかもしれない。

その方が怖いですよ、実際。

 

僕もしっかり自分の意思を伝える場所として、こういう場所も大事にしていきたいと思います。

次は1週間以内に更新できるといいな(笑)