アウトプットの頻度が高い人と話していると、優秀な人が圧倒的に多い。
それはなぜなんだろうとずっと疑問だったが、自分が色んなライティングを依頼されるようになってその解らしいものがわかったので少し書いてみようと思う。
アウトプットをするためには前提としてのインプットが必要になる。
それは読書によるものかもしれないし、人の話を聞いてのものかもしれないし、あるいはインターネットの記事かもしれない。
ソースは多岐に渡るが、とにかく何らかの情報を外から仕入れる、ということを大なり小なり行っているはずである。
そしてそれを言語化する、という作業がその次には必要になってくる。
そのままコピペしたり、シェアするだけなら、「その人から話を聞く価値」が受け手にとって発生しないので、その人なりの言葉のチョイスや表現の付け方、つまり言語化が必要である。
もちろん、伝わりやすい言語化をするためには別のインプットが必要になる。
したがって、なにかをアウトプットしようと思うと、
アウトプットする素材となる情報を仕入れるという意味でのインプット
と、
より効果的なアウトプットをするための表現を探すという意味でのインプット
の2種類が必要になる。
1つのアウトプットをするために2つのインプットをしているわけだ。
入り口としてのインプットが2つあり、出口としてのアウトプットが1つしかないということは、この2つのインプットを自分の中で腹落ちさせて噛み砕く必要がある。
その過程でもし何か腑に落ちないことがあればそのアウトプットは一旦棚上げにするだろう。
普段の生活のふとした瞬間だったりに不思議と腑に落ちる瞬間が来たりするが、それもそういう刺激の多い環境に身を置いていないとそうそうは起こらない。
このように、何らかの形でアウトプットをしようと思うと、アウトプットに至るまでで得られる情報量は必ずと言っていいほどその倍以上になってくる。
その人の中で噛み砕かれていないものも多いだろうが、その膨大なインプットの量を推して知るだけでも、その人の引き出しの豊富さが感じられるだろう。
アウトプットが苦手なら「一言添える」だけでいい
とはいえ、わざわざブログを作ってアウトプットをする、には至らない人もいるだろうし、あるいはSNSをはじめ公の場に自分の意見を出していくことに抵抗のある人も多いだろう。それはその人の特性なので仕方ないと思う。
であればせめて、人のアウトプットに対して「あ、これだ!私の言いたかったこと!」と安易に同意するのではなく、そこに一言加えて話をすることだ。
色んな人のアウトプットが流れる中で、「これこそ自分の言いたかったことだ」と感じることは珍しくないだろう。一方、その内容全てに完全に共感することは決して多くないとも思う。一部は大いに同意だけれど、それ以外は違う、であったりその逆であったり。
そういう感覚を大事にすべきだ。
ゼロから言語化したりアウトプットに繋げられない、そのハードルが高い、というのであれば、すでに言語化されていてかつ自分の感覚に近いもの、せめてそういうものだけでも、自分の言葉に落とし込んでみる、それだけで十分なことも多いだろう。
こんな記事を見た、こんな本を読んだ、あるいはドラマや映画を見たっていう話でもいいだろうし、とにかくそこで感じたことを伝えたりするといい。
感じたことを話すことすら嫌なのであれば、あらすじを話すだけでも良いと思う。
せっかく何かを身体の中に入れたわけだから、それを咀嚼して何らかの形で外に出す、アウトプットすることが大事だと思うのである。