「マネジメント」という言葉をなくしたい。
そもそも何をもって「マネジメント」というのだろうか。
彼らは何をしているから「マネージャー」と呼ばれるのだろうか。
メンバーの仕事の進捗を管理することだろうか。
だとすれば、メンバーはどれだけ複雑な仕事をしているのだろうか。
あるいはマネージャーはどこまで細かな進捗を見に行くのだろうか。
会社あるいはチームにとって、目的は限られているはずである。
売上の向上でもいいだろうし、世の中へのインパクトの提供でもいいだろう。
目的を決めているということはそれを測定する手段も決まっているだろう。
であれば、そのベクトル通りにコトが運んでいるかどうかを見ればいい。
ズレていれば修正をすればいいし、期待通りなら見守ればいい。
ズレが出るということは、目的の浸透が出来ていないか、目的は浸透しているが手段の浸透(スキルレベル)が及んでいないということだ。
前者ならば目的を繰り返し伝えるしか無いだろう。後者の場合は研修などのティーチングが必要になるかもしれない。
とはいえ、どれだけの時間が必要となるだろうか。
数時間あるいは数日で済むだろう。もちろんそのリピート性はあるのだが。
マネージャーは1年間ずっとマネージャーであることが多い。
もちろん彼らのチームに人の出入りがある以上、定期的にアップデートの作業をしなければいけないだろうが、それでもそこにかかる工数は知れている。
そう考えると冒頭の疑問に立ち返るわけだ。
「彼らは何をマネジメントしているんだろうか。」
「彼らの存在意義はなんなのだろうか。」
僕はマネージャーという存在がとても不幸に見えて仕方がない。
彼らは自分のために時間を使うことが少ない。
常にチームやあるいは他のマネージャーとのやり取りを要求される。
そして現場から少しずつ離れていく。
マネージャーを長く続ければ続けるほど、「マネージャーとして生きていくしかなくなる」のだ。
よくメンバーについて、「組織の歯車である」という見方をする人がいるが、メンバーは個人の自由意志で動ける範囲が非常に広い。(もちろん会社の目的の範囲でだが。)
僕はマネージャーこそが「組織の歯車」として使われる存在だと思うのだ。
もちろん、その組織に長く滞在するつもりならばそれも悪くない。むしろその中で出来るだけ大きな「歯車」としてむしろ組織を動かす側に立つことすら出来るだろう。
僕が思うのは「若くしてマネージャーになった人」の悲惨な末路だ。
先に挙げたように「マネージャーとして生きていくしかなくなる」上に「組織の歯車」として動いていく存在である彼ら。
もはや転職によるキャリアアップやキャリアチェンジが容易となった今、「その組織で生きていく」存在であるマネージャーは不幸ではないか。
それが若ければなおさらだ。
そしてこの日本という国において、「マネージャー」はなぜか「優れたプレイヤー」を「抜擢する」という名目で扱われる。
生産性が高いであろう「プレイヤー」に「生産」ではなく「管理」をさせるのだ。
スポーツで言えば、エンゼルスの大谷選手に「君は優れたプレイヤーだ。だからプレイヤーをやめて、監督になってくれ。」と言っているようなものだ。
もし大谷選手にそんなオファーがあり、彼が仮にそれを受諾したら、あなたはどう思うだろうか。
しかもスポーツと違い、現在の多くのビジネスにおける「マネジメント」に実がないことは先に述べたとおりだ。
もはや「マネージャー就任」は「抜擢」どころか「罰ゲーム」でしかない。
僕個人の話になるが、今もまだ多くの転職のオファーを幸いにもいただくことが出来ている。とてもありがたいことだ。
だが、その半数以上は「マネジメントライン」への参入だ。
10年後20年後ならともかく、今「マネージャー」になるつもりは一切ない。
もっと現場で、最前線でスキルや知識を伸ばしていきたいからだ。
複業が解禁されつつある今なら、A社でマネージャー、B社でプレイヤーという形なら少し興味は湧くのだが。
なんにせよ、そろそろ「マネジメント」というもののあり方を考えなければならない。
そもそも、もしチーム・組織に理念や目的が浸透しているのであれば、全員がそれに向かって努力している状態が作れるはずである。
そこには役職もあるいは部署も関係ない。
自分がその目的の達成のために必要なものは、年齢もチームも関係なく巻き込んで達成に向けて動くべきである。
そうして、いい意味で混ざりあった組織であれば、ここでいう「マネジメント」など一切不要になる。
必要な「マネジメント」は、
- セルフマネジメント
- タスクやプロジェクトごとのマネジメント
- 組織理念や目的が浸透しているかのマネジメント
この3つになるはずである。
この「マネジメント」はこれまで挙げてきた「奴隷的マネジメント」とは全く種類の異なるものだろう。
まずは理念を浸透させ、それを実行できるだけの各個人のセルフマネジメントを経て、その実行手段たるプロジェクトをその当事者がマネジメントする、それだけで良いのではないか。
不幸なマネージャーを解放してあげてほしい、それを説に願うのである。