色黒大阪人が気ままにつぶやくブログ

色黒で大阪人で人事(過去形)な僕がなんかつぶやきます。

だから「やりがい」に依存してはいけない

こんにちは。
僕が採用担当をしていたころ、多くの学生から聞かれる質問が「御社でのやりがいを教えてください」というもの。
僕はこれに対してすごく強い違和感を覚えていたので今日はそんな話を。

その違和感は大きく分けると2つで、「そもそもやりがいってそれぞれ違うよね」というのと「やりがいは原動力にならないんじゃない」ということです。

「やりがい」は十人十色

当たり前かもしれませんが「やりがい」なんてそれぞれ違うものです。給料の高さがやりがいかもしれないし、相手の役に立っていることがやりがいかもしれないし、自分のスキルを高めることや自分の憧れの先輩を追いかけることかもしれない。

同じ会社に働いていても、それは違ってアタリマエですよね。そうなってくると、そもそも「やりがい」を問う質問って必要なのか疑問に感じてしまいます。

もちろん、自分に近い「やりがい」を持っている、つまり自分に近い価値観を持っている人と働きたい、というアプローチは理解できます。この「やりがい」だけで何かを決める、「やりがい」依存には反対したいですが。

「やりがい」が抱える矛盾

「やりがい」について考えた時、その矛盾に突き当たりました。それは「やりがい」を「必要とするとき」と「実際に感じるとき」が違うということです。

自分がどういうときに「やりがい」を必要とするだろうか、と考えてみると、おおよそ自分が苦労をしていたり、つらい目に遭っていたり、とそういう場面が目に浮かびます。
もちろんそういうときに「やりがい」を感じられていれば、その困難や壁を乗り越えられるかもしれません。

ただ、実際に「やりがい」を感じるときは、むしろその困難を超えた後に充実感を感じているときであったりするわけです。
こうして、「やりがいを必要とするとき」と「やりがいを感じるとき」には拭いきれないタイムラグが発生してしまうわけです。

「やりがい」は大事、だけど「やりがい」は助けてくれない

もちろん「やりがい」は大事です。

僕自身、何も感じず考えず仕事をしているわけではない以上、そこから何か得られたり、という「やりがい」を感じながら仕事をしています。

でも、その「やりがい」は自分を必ずしも助けてくれるわけではありません。「助けてくれることもある」くらいの感覚ですかね。

だから「やりがい」に依存してはいけない

なので、「やりがい」はあくまで一側面であり、一つの要素にしか過ぎない、ことを理解したうえで向き合っていくのがちょうどよいものです。

「やりがい」を感じるときはそれをしっかり受け止めて味わって、その結果「やりがい」がなくても頑張れるだけの何かを感じられれば、理想かもしれません。

「やりがい」以外にもいくつか軸をもって、その掛け算で仕事や困難に向き合う原動力としていきたいですね。

それではまた。